こんな風に画面に向かって、自分の考えていることを文章にする作業をするのはほぼ1ヶ月ぶりだ。
この4年ほど、パソコンを使ってjournalと銘打った日記のようなものを書いてきた。
この1ヶ月は意識してそれをやめてみた。
生活は特に変わることもなく、確かに自分がしてきたことは忘れやすくなるも、過去のことを記録することにどれくらいの意味があるのだろう、と逆に考え込んでしまった。
1ヶ月前に自分が何をしたからどうだった、ということを今の自分が知ったとして、だからなんだというのだ。
うれしかった事や、楽しかったことを覚えているように、悔しかったことや悲しかったことだって出来事としてきちんと思い出せる。
そのときの気持ちや風景や匂いだって思い出すことができる。
現にパラオ行のことだって、5日分の出来事を昨日のことのように映像として残っている記憶の中から思い出せることができた。
「あのときの、あの感じ」を言葉にして伝えることができた。
もちろんこの1ヶ月だったたくさんの出来事があった。
宇宙人が死んだ。
正月は実家に帰らず生まれて初めて実家以外の場所で年を明けた。
雪が降って、少し遅れて実家に帰った。
3年後の僕たち家族の未来を決めて、そこに向かって進もうと決めた。
それ以外に思い出せないことは、結局そんなに僕にとっては大事なことではないのかもしれない。
そりゃそうだよな、と思う。
なぜなら娘が生まれる前の僕の視線は、前と外に向いていた。
ブログだって、世の中の人や僕のことを良く知らない人に知ってもらえたら、という気持ちで続けていた。
実際このブログを読んで僕という人間を知るきっかけになった、という声を寄せてくれた人だっている。
相棒もブログを続けていて、ブログ上で普段照れくさくて話せないことを伝えたりもしていた。
そんなふうに、僕の気持ちは僕の外側に向いていたのです。
でも娘が生まれて変わってのだと思う。
夫として、妻に認められたい。
父親として、娘に認められたい。
世の中のたくさんの人に愛されるより、妻と娘から愛されたい。
世の中のたくさんの人に、僕という人間が「良い」影響を与えるより、妻と娘に僕の存在が愛そのものだという影響を与えたい。
心からそう思う。
そう思うようになった。
お金が欲しい・すごい人だと思われたい・「あきらが必要」と言われたい、そんなことはどうでも良くなってしまった。
それよりも妻と娘の平和な笑顔が見ていたい。
そのために仕事をする。
僕の視線は足元と自分に向けられるようになった。
赤の他人に認められたいという欲求より、妻と娘を愛したいという欲求が上回ってしまった。
いろんなことがこの1ヶ月に出来事として僕に影響を与えた。
それはこんな風に僕の価値観を変えるまでの出来事でもある。
宇宙人の死、がとりわけショックを与えていると思う。
いずれにせよ僕らは死ぬ。
それだけは間違いない。
世の中に絶対はふたつしかない。
愛情と死だけ。
このふたつは「間違いのないこと」だ。
僕らは必ず死ぬ。
癌になれば、ミイラのようになって黒く干からびて死ぬ。
焼かれて骨になって粉になっておしまい。
残されて人たちは悲しみを胸に抱いて生きていくしかない。
僕は死ぬときにどんな風に死ぬかわからない。
でも死ぬときに「ああ、やっぱりあれをやっておけば良かった・・・。」と後悔するのは嫌だ。
「ああ、あれはやらなければよかったなあ」というのは後悔ではなくて反省だからね。
額に汗して、地面に涙をこぼして、毎日楽しく、家族と一緒に、自然の中で、日々学びながら、何よりも感じながら、暮らしたい。
そして死んでいきたい。
何かの本で読んだけれど、「生き様」などという言葉は本来存在しなかったという。
「死に様」という言葉が本来の言葉である。
1人の「死に様」が僕を変えたのかもしれない。
文字にして残すことが、僕にとっては大切なことに思えなくなってきてしまった。
今こうしてキーボードに向かっている時間、妻の隣で娘を抱いていたい。
日に日に成長していく娘、日に日に親になっていく僕たちを繋ぎとめている「時間」をきちんと家族として受け止めたい。
大事なのは過去ではなく、今ここ。未来は今日の積み重ね。
そんなわけで今後は更新の頻度ががくんと落ちるかもしれません。
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