夜通し車を走らせた。朝6時。日の出と共に。
(撮影:たかはしじゅんいち)
4月3日、4日と石巻市、女川町、南三陸町に支援物資を積んで行ってきました。
同行者はカメラマンのたかはしじゅんいち氏、NPO法人エデュケーショナル・フューチャーセンターの中川綾、文部科学省の池田陽平氏。
土曜日の22時に下北沢のEFC事務所に集合し、レンタカーの2㌧トラックとプリウスを借りて、物資の積込み開始。
今回は僕の知人である石巻の湊水産株式会社の木村社長ご夫妻と連絡を取り合いました。
木村さんご夫妻は石巻の湊地区にたらこの加工場を営まれている。
津波は工場を襲った。
3階建ての工場の2階まで津波が襲い、運良く3階の会議室(40畳ほどの和室)は難を逃れ、従業員、近隣の方が避難している。
4日ほど前までは、この和室に80人が避難していた。
木村さんご夫妻と。手前の道路は4日前までは瓦礫と汚泥の山だった。
(撮影:たかはしじゅんいち)
湊地区は、未だに(4月6日現在)すべてのインフラが復旧していない。
電気も、水道も、ガスも。
朝9時にお邪魔してから2時間、たっぷりとお話を伺った。
震災直後から、4月3日までのこと。
木村社長が助けた女性のこと。
迫り来る津波のこと。
最初の1週間のこと。
自衛隊への感謝。行政への不満。政治への不満。
必ずここで商売を復活させる意気込みのこと。
朱美さんが見たこと、聞いたこと。
中学生の兄弟が家族を探しにきて、湊水産の中に入ったところで食事を与え、泊まらせたこと。
電柱に12時間しがみついた男性を発見し、みんなで助けたこと。
従業員(若い女性)の家族が見つからなくて、でも瓦礫の山の中を探しに行かせることもできずにいたところ、隣町から20㌔の距離を2日かけてご家族が瓦礫の山を乗り越えて無事に対面できたこと。
情報が全く入って来ないこと。
商売の見通しが全く立たないまま、県外へ避難する気持ちになんてなれないこと。
お話を伺っている間、自衛隊員が安否確認のために訪問してきた。
石巻市役所の職員(といっても岐阜県からの応援職員)が要介護者の聞き取りのために訪問してきた。
石巻社協のゼッケンをつけた広島からのボランティアが、物資の配給や汚泥の掃除についての聞き取りに来た。
従業員の方々は、男性は力仕事をしに外に出て汚泥や瓦礫の掃除をしたり、女性は避難所で食事の用意や掃除などに追われていた。
木村社長のお話で、印象に残ったこと。
「まずはお金。よこせ、とは言わない。何年かけても必ず返すから、『再興のために貸します」という具体的な声を聞かせてほしい。先の見通しがないのに、どうしたらいいのか。私は経営者だ。従業員を解雇する、というの人それぞれ理由や事情があるのだろうが、私は絶対に解雇はしない。そのためにも、まずはお金の見通しを立てなければならない。」
「ボランティアをするのも、何をするのもとてもありがたい。『何かできることはないか?』と迷うのであれば、まずは声をかけてあげてほしい。明るく大きな声で『こんにちは!』で構わない。明るい声が元気を届けるのだから。顔を見せて、声をかけてあげてほしい。」
お話を伺った後、隣町の女川町に移動することに。
木村社長も女川に取引先があるため、同行することになった。
石巻から女川町までは、距離にして15㎞ほど。
移動の車中で、様々な光景を目にする。
石巻市湊地区、国道398号にかかる歩道橋の上から石巻駅方面に向かって。
自衛隊と米軍により、道路は瓦礫と汚泥が取り除かれ車が通れる状態に。
ひっきりなしに自衛隊の車両が行き交う。
(撮影:たかはしじゅんいち)
湊地区、国道398号沿いの龍神神社。木村社長が子どもの頃から遊んでいた境内。
狛犬の顔が剥がれ落ちていた。中学生くらいの女の子たちがおしゃべりしながら歩いていた。
(撮影:たかはしじゅんいち)
滝尻地区、国道398号沿いのパチンコ店。店舗内にも車が流れ込んでいるのが見える。
(撮影:たかはしじゅんいち)
浜松地区、国道398号沿い。NDRF(National Disaster Response Force)のインドから派遣されたチームが行方不明者の捜索をしている。
(撮影:たかはしじゅんいち)
浜曽根地区、石巻市立女子商業高校の校舎。校舎の壁に、津波到達時の「線」が刻まれている。海から200㍍の距離にあるこの学校は、校舎の1階が完全に浸水したことがわかる。
(撮影:長尾彰)
女川町、寿町地区、国道398号沿い。3階建ての建物の上に車が載っている。
(撮影:長尾彰)
女川町、女川浜から女川駅方面を臨む。奥に見えるのは女川町健康センター。
(撮影:長尾彰)
女川町、女川駅周辺。
(撮影:たかはしじゅんいち)
女川町、女川駅周辺。女川町役場から女川駅方向を臨む。5階建ての駅舎の4階まで津波に襲われたことが伺える。女川町役場は原型をとどめていない。
(撮影:長尾彰)
女川町立第二保育所を背に東を向く。
(撮影:長尾彰)
女川町立第二保育所。門と基礎以外、何も残されていなかった。
(撮影:長尾彰)
第二保育所の北にある高台の墓地から、女川市街を臨む。
(撮影:たかはしじゅんいち)
女川浜大原地区。高台の墓地から。
(撮影:長尾彰)
女川浜大原地区の墓地に流されてきた電車車両の中。
(撮影:たかはしじゅんいち)
女川町女川浜日蕨。「瓦礫」ではなく、流されてしまったものはそこで暮らしてきた人たちの「思い出」そのものであり、「たからもの」だったんだ。この家族の無事を、僕は祈ることしかできなかった。
(撮影:たかはしじゅんいち)
今回、写真を撮影するにあたり、その場にあるものは一切、手を触れませんでした。このひらがなの練習帳も、このままの形で風に吹かれていた。
(撮影:長尾彰)
女川浜日蕨地区。海から3㌔の場所。
(撮影:長尾彰)
自衛隊が行方不明者の捜索を続けている。すれ違う彼らの顔を見ると、まだ20歳にも満たないあどけない青年たちだった。疲労を顔に浮かべながらも、統率を乱さずにリーダーの指示に従い、黙々と作業を続けていた。自衛隊員たちの活躍は、そこかしこで見える風景だった。
(撮影写真上:長尾彰)(撮影写真下:たかはしじゅんいち)
かつてここには、住宅街があった。
(撮影:たかはしじゅんいち)
そこには人々の暮らしがあって、家族の歴史があって、それぞれの日常があった。笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、愛しあったり。瓦礫の除去作業をする自衛隊員たちは、こういった写真や「思い出の品」をできるだけ丁寧に残していた。
(撮影:たかはしじゅんいち)
半壊した住宅の撤去作業が続く。見守るのはこの家に暮らしていた家族だろうか。
(撮影:長尾彰)
60代後半の女性が、自衛隊が作業を続ける町営住宅と思しきマンションの自室から使えそうなものを取り出していた。かける言葉も見つからなかった。
(撮影:長尾彰)
(撮影:たかはしじゅんいち)
女川町から石巻市へ戻る道中、自転車に乗った若い女性が呆然と立ち尽くしていた。
(撮影:たかはしじゅんいち)
女川町黄金地区。
(撮影:たかはしじゅんいち)
女川町は、「壊滅」というよりも街が「消滅」していた。
天気は晴れたり曇ったりして、青空と太陽光のコントラストが奇妙に綺麗だった。
そして、音がなかった。
色がなかった。
埃が舞い上がる中、鳥たちだけが啼声をあげて飛び回っていた。
このあと、いったん石巻に戻る。
石巻市、石巻漁港。
原油の匂いが一面に漂っていて、人の気配はない。
(撮影:たかはしじゅんいち)
石巻漁港。海鳥が飛び交う。
(撮影:長尾彰)
画面右下に見える水は、重油が混じっていて真っ黒です。
(撮影:長尾彰)
石巻市、門脇地区。松が力強く生き残っている。
(撮影:たかはしじゅんいち)
石巻市、門脇地区。
(撮影:たかはしじゅんいち)
門脇地区。
(撮影:長尾彰)
門脇地区。
(撮影:長尾彰)
門脇小学校。
(撮影:たかはしじゅんいち)
門脇小学校から門脇地区を臨む。
(撮影:たかはしじゅんいち)
門脇小学校1階。
(撮影:長尾彰)
門脇小学校2階。とある教室。
(撮影:長尾彰)
門脇小学校2階。火事に遭わなかった側。
(撮影:たかはしじゅんいち)
門脇小学校屋上から、門脇地区を臨む。
(撮影:たかはしじゅんいち)
門脇地区。
(撮影:長尾彰)
夕暮れが近づくにつれて、気温はどんどん低くなってくる。
この後、湊水産の木村社長と分かれてボランティアセンターが設置されている石巻専修大学に移動した。
午後7時から始まるボランティア全体ミーティングに出席。
およそ40ほどの団体が席に座り、今日の報告と新しい仲間(団体)の紹介、それから明日の予定については各分科会(例えばメディカル班、ローラー班、マッドバスターズ班など)で連携について相談されていた。
その席で、僕たちは柴田滋紀さんに出会う。
河北新報に取り上げられた柴田さんの記事。4月5日は日本テレビ「スッキリ!」でベッキーの取材も受けたそうだ。
(撮影:長尾彰)
彼はリンク先記事にある通り、避難所で子どもたちへの読み聞かせを始めている。
この全体ミーティングの席に、彼も僕らと同じく繋がりを求めて出席されていたようだ。
彼に話しかけて、結プロジェクトの件を話し、連携することになった。
その様子を見ていた日本財団の中川大輔さん・金子知史さん(東北地方太平洋沖地震災害支援センター)、玉澤正徳さんから声をかけていただき、日本財団とも連携が可能になった。
実際に現地に足を運んでみてはじめて「需要」と「供給」が一致するものだ、と改めて思った。
この全体ミーティング終了後、湊水産に戻り木村ご夫妻のお言葉に甘えて持参した寝袋で休ませてもらう。
この夜は、とても冷えた。
停電のせいなのか、街全体が暗く星空が驚くほど綺麗に見えた。
物音もせず、静かに夜は過ぎていく。
翌朝は6時に起床。
避難所の朝は誰からともない「おはよう」で始まる。
僕たちも起きだして、さっそく行動開始。
石巻専修大学に戻り、物資を下ろす。
柴田さんと行動を共にする渡辺さんが軽トラを調達し、移動図書館をするということなのでさっそく物資として持ってきた絵本と本、漫画、文房具を渡す。
その後、富士ゼロックスのCSR推進室の野村グループ長と合流するために、南三陸町に移動を始める。
石巻市湊地区は、満潮が近づくにつれて冠水が始まる。深いところで50センチ程度か。車では市街地を抜けられないので、山道を迂回して石巻専修大学に向かう。
(撮影:たかはしじゅんいち)
柴田さんと行動をともにしている渡辺さん。
シャイではにかみながらだが、きちんと自分の考えを伝えてくれる。
いかした軽トラをめ組ジャパンに交渉してゲットしてきた。
(撮影:たかはしじゅんいち)
日本玩具協会から寄贈いただいたおもちゃ・文具、鈴木ゆかさんチームに寄贈いただいた文房具の一部を「移動図書館」に渡す。2㌧トラックはほぼ空になった。
(撮影:たかはしじゅんいち)
石巻専修大学のグラウンドは、ボランティアのテント村として開放されている。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町に入る。
南三陸町、大久保地区。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、塩入地区。足踏み式の発電機なのか、ポンプを動かして給油されている。20台ほどが並んでいた。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町役場。防災対策庁舎の鉄骨部分だけが残っている。
(撮影:長尾彰)
南三陸町、公立志津川病院。手前に見えるのは川ではなくて、潮だまり。まだ、水がひいていない。
(撮影:たかはしじゅんいち)
おそらくこのスタンドは、この記事に出ている場所なのだろうか。綺麗に片付けられている。ガソリンは2つの意味で必要だ。1つ目は車で移動するための、文字通りの燃料。2つ目は高台に車で避難している人たちが夜の寒さを凌ぐための暖房のための燃料。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、公立志津川病院の正面。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、志津川病院のバス停。
(撮影:長尾彰)
南三陸町、松原公園。記念碑はどっしりと残っていた。奥に見えるのは、公園に遊具として設置されていたであろう、機関車。
(撮影:長尾彰)
(撮影:たかはしじゅんいち)
松原公園。遊具の色がそのまま残っていて、赤や黄色や青が映えていた。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、松原公園あたり。
(撮影:長尾彰)
南三陸町、南町にかかる橋のあたり。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、志津川地区。
(撮影:長尾彰)
南三陸町、志津川地区。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町の役場は流されてしまったので、ベイサイドアリーナを災害対策本部を設け行政機能と物資の搬入・搬出拠点としている。
先にベイサイドアリーナでシビックフォースの物資の搬入をお手伝いをされていた富士ゼロックス社のCSR推進室の野村グループ長とここで合流。
南三陸町の避難場所、ベイサイドアリーナ正面玄関。行政関係者や消防、警察、自衛隊、ボランティア関係者、避難している方々がひっきりなしに出入りをしている。張り紙がしてあるガラス戸のすぐ向こうで、布団とダンボールで区切られた生活スペースに被災された方がひしめいている。
(撮影:長尾彰)
避難されている方たちのストレスは相当強いものがあるので、カメラの持ち込みも控えましょうということにした。
ベイサイドアリーナはアリーナ部分が支援物資の保管場所となり、ここを拠点に町内の45箇所にのぼる避難所に、自衛隊やNPOなどのボランティアが搬送をしている。
被災された方たちはパブリックスペースに布団を敷き、そこで「生活」をするわけだが不特定多数の人間が行き交う場所であり、とても休める場所ではないように見えた。
自衛隊もここにキャンプを張り、「熊の湯」と銘打ったお風呂を提供していた。
できるだけ行き交う人たちに「こんにちは!お邪魔します!」と声をかける。
野村さんと日本IBMのCSR担当執行役員、江口昌幸さんたちともここから一緒に動く。
シビックフォース久保田さんの案内のもと、南三陸町に45箇所ある避難所、荒砥地区の老健施設と歌津中学校に移動する。
荒砥地区の荒砥保育園にはシビックフォースが「お風呂」を作っていた。
ドラム缶にいれた水を灯油で沸かし、水で薄めて漁の水揚げに使うコンテナ(容量1㌧)を浴槽として使う。
荒砥には幼児から小中高生が見たところ20人ほどいたので、トラックに積んでいたおもちゃ・文房具・漫画を量は少ないが置いていく。
子どもたちは野球盤を目にして、歓声を上げていた。
避難所のマネージャー役を務めているであろう若い女性は、「子どもたちはすっかり持て余してしまっていて、おもちゃや本は本当に助かります。」と笑顔で受け入れてくれた。
自治会が「生活」そのものをリードしていて、シビックフォースはそのお手伝いに徹しているように見えた。
正午をまわり、荒砥に雪が降り始め、あっという間に吹雪になる。
歌津中学校に移動する。
中学校の教室、体育館に500人ほどが避難されているとのこと。
歌津中学校、体育館。写真手前の体操用マットが敷かれている場所で、小学生の男の子たちは元気いっぱいに転げまわっていた。
(撮影:長尾彰)
ここでもシビックフォースがお風呂をつくって、バイオマス燃料で沸かしていた。
体育館では小学生の男の子たちが生活スペースの隅でプロレスごっこに興じていたり、ボール遊びで歓声をあげていた。
中学生くらいの男子たちは、8人くらいで集まって漫画を読む。
体育館のステージには50インチのほどのテレビが置かれ、水戸黄門が放映されていた。
お風呂から戻ってきた小学生の女の子、飛び回っている男の子たちに話を聴く。
「大変なことは何?」
「うーん、友だちに会えないことかな。」
「地震の日から、まだ会えてない友だちがいるってこと?」
「そう。毎日ここにいるからつまらないんだよね。友だちに会いたい。」
歌津中学校の体育館は場所が広い分、落ち着いた雰囲気があった(ベイサイドアリーナとの比較だが)ように見えた。
歌津中学校で重徳和彦さんと合流する。
我々のプロジェクト、「結(ゆい)コンソーシアム」にも賛同してくれているため、宮古から気仙沼を回ってきた重徳さんと情報交換を進める。
愛知のNPOとの連係に強い重徳さんから、愛知県の団体をつなげてもらうことになりそうだ。
日暮れ近くなり、ようやく雪が止む。
帰京する時間が迫る。
南三陸町、歌津地区から清水浜地区に移動する途中での光景。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、清水浜地区。
(撮影:たかはしじゅんいち)
JR気仙沼線、清水浜(しづはま)駅。
(撮影:長尾彰)
清水浜駅から石巻方面を臨む。津波はこの駅も飲み込んだ。
(撮影:長尾彰)
清水浜駅。かつて線路があったと思われる場所。
(撮影:長尾彰)
清水浜駅から南三陸町方面を臨む。
(撮影:長尾彰)
(撮影:たかはしじゅんいち)
そしてまた、夕暮れの南三陸町に戻る。
高台から、志津川地区を臨む。
(撮影:たかはしじゅんいち)
南三陸町、志津川地区。湊水産の営業部長は、この地区から石巻に出勤し、被災した。そのまま石巻市内にとどまったまま、3週間が過ぎ、ご自宅は流されてしまった。
(撮影:長尾彰)
皮肉にも、鳥だけが自由に夕暮れの空を飛んでいた。
(撮影:長尾彰)
2日間という短い時間だが、その時間を上回るたくさんの風景、たくさんの言葉に触れた。
こういった光景が、茨城県日立市から岩手県久慈まで、災害規模の大小はあれど続いていることになる。
僕(あるいはしている株式会社・エデュケーショナル・フューチャーセンター)は、「教育」をテーマに活動をしている。
今回の震災でも、「教育」に関連する支援をする。
例えば「プロジェクト結(ゆい)」がそうだ。
本文中にある、柴田さんを徹底的にサポートしていこうと思う。
子どもだって、大人だって、学びを必要としている。
「日本をひとつに」「日本をチーム」
この3週間であちこちで聞かれるフレーズだ。
大切なのは「どうしたらひとつになるか」「どうしたらチームになるか」という具体論だ。
僕がこうしてPCに向かっている今も、湊水産では、荒砥では、ベイサイドアリーナでは、歌津中学校では、石巻高校では、満足に眠ることも食べることもできない人たちがいる。
だから僕は信頼のおける仲間たちと、「結プロジェクト」を起ち上げた。
被災地のコミュニティの復興と子どもの教育をみんなで支えるために、官(文部科学省)と民(NPO法人エデュケーショナル・フューチャーセンター、富士ゼロックス、ベネッセ、スカイライトコンサルティング、ローハイド、スポーツビズ、教育同人社、NPO法人カタリバ、NPO法人じぶん未来クラブ)と連携したコンソーシアムを起ち上げた。
この3週間はこの立ち上げに奔走している。
これからも継続していくために、拡大していくために奔走することになる。
今晩も富士ゼロックスのフューチャーセンターに、プロフェッショナルたちが集まり、夜ごと議論を交わしている。
Just Givingで活動支援金を募る活動も続けている。
これからも引き続きの支援をいただきたい。
:)
感動した。
当社がここまで動いている事にも感動した。
共に生きましょう。
私はこちらでできることをします。
富士ゼロックス
兼
NPO二枚目の名刺
杉谷
投稿情報: 杉谷 | 2011年4 月 7日 (木) 00:50
涙が止まりません。。。
あきらさん、みなさんお疲れ様です。
そして、ありがとうございます。
ニュース報道は、何故だか、涙はでませんでしたが、、、
涙がとまりません。。。
投稿情報: 前橋 | 2011年4 月 8日 (金) 06:03
被災が現実を帯びて私自身に迫ってきました。
何不住することなく生活できている自分と被災者の現実
そして精一杯の行動をされている方々にただ頭が下がります。
この状況を忘れず、私自身でできる支援を今後も考え、行動し続けようと気持ちを新たにすることができました。ありがとうございました。
投稿情報: ふみ | 2011年4 月15日 (金) 06:12
こんにちは。
私は女川育ち、現在は東京在住です。
私の両親は女川の海岸にある女川共同ビルで
商店を営んでいました。
津波で鉄筋三階建てのビルが跡形もなく流されました。
ビルの残骸は発見されていますが、自宅部分は粉砕され何も残っていません。
昨晩、こちらのブログでビルの残骸(これは以前から認識していました)と、うちの自動販売機がお墓の手前に
あるのを見つけました。
ダイドーの販売機で女川には同種の物はなく、
小型の物は近くのお店の物ですが、
こちらの写真の物は大型で家の物だと思われます。
48ページあたりにありました。
こんな所でみつかるとは思いもしませんでした。
両親にも伝えました。
ありがとうございました。
またボランティアにいらしてくださって
ありがとうございました。
投稿情報: またこ | 2011年5 月26日 (木) 14:49