16日、17日と再度石巻を訪れました。
15日の23時に下北沢を出発。
今回は3台の車で14名で移動。
SMARTプロジェクトのご尽力で、トランシーバーを7台貸与いただきました。
前回の訪問の際は、携帯電話での連絡が思うようにとれず車両間の連絡や活動場所での連絡が滞ったので、このトランシーバーのおかげでずいぶんとスムーズに動くことができました。
鷺坂さん、御協力感謝致します。
映っているのは同行したNPO法人じぶん未来クラブの学生スタッフ、辻くん。今回の活動はこのトランシーバーが活躍しました。カーナビ通りに道が残っていないので、こまごまとしたやりとりは電波が入りづらい携帯電話よりも、トランシーバーが重宝されました。併せて「どーぞ」というやりとりもプチ流行。
(撮影:長尾彰)
早朝、石巻を抜けて女川町に向かう。流された車はだいぶ片付けられていましたが、全体としては2週間前と風景は変わらず。
(撮影:長尾彰)
気仙沼線の車両も、まだ撤去はされておらず。
(撮影:長尾彰)
女川港に、集積場ができていた。
(撮影:長尾彰)
ひしゃげた鉄骨、泥にまみれた廃材が山のように積まれている。
(撮影:長尾彰)
朝陽の女川港に、小さい漁船が入ってきた。舳先はボロボロだったが、5週間前もそうであったように水面を滑っていた。船を動かす油が手に入り始めたのだろうか。
(撮影:長尾彰)
石巻市立渡波小学校にお邪魔して、避難生活を送る子どもたちと関わる。石巻こども避難所クラブの柴田さんに繋げていただいた。目下、我々の課題は地元・石巻との関係性が薄いこと。直接子どもたちに関わってみると、彼(彼女)たちの表面的な元気さに隠れた「抱えているもの」を感じた。それは大人との距離感だったり、子ども同士の会話の内容や声の大きさだったり、身体の動きだったり。相当なストレスを感じているように見受けられた。
(撮影:長尾彰※この写真には一部修正を加えています)
渡波小学校には約850人が避難されている(4月16日現在)。子どもたちの正確な人数はわからないけれども、キックベースを始めたら、わらわらと小学校中学年以上の男子が20人ほど集まってきた。この日はスポーツビズの山本社長以下、社員の方、それから荻原次晴さん、白石康次郎さんも石巻に入り、午前中は泥かき、午後は子どもたちとの活動に合流してくれた。次晴さんも康次郎さんも子どもたちといっしょになってキックベースをしてくれた。男の子たちは持て余していたらしく、全力で身体を動かし、大声をあげ、大笑いをする。強風が吹き荒れる中、埃にまみれながら歓声をあげる。大人チームVS子どもチームで全力の戦い。文科省の若手官僚、池田くんもいっしょにボールを蹴る。勢いよく蹴り上げたら、長靴が飛ぶ。大笑い。その場で子どもたちは、「おお!だせーぞ!長ぐつマンだ!」と腹を抱えて笑っていた。
石巻高校で、石巻こども避難所クラブの活動として子どもたちと遊びの時間を楽しんでいた。そこに突然、長渕剛さんが避難所を訪問してくれた。「愛しているのに」「とんぼ」を唄ってくれる。僕はこの時、子どもたちを前にギターで唄っていた。僕の抱えたギターを見て、長渕さんが指をさしてニヤリと笑いかけてくれる。「いいねえ、やってるねえ」と言わんばかりに。100人ほどの聴衆、涙を流しながら聴く人、いっしょに歌う人。一生懸命唄う長渕さん。彼が震災直後に発表した詩。彼をつき動かしているのは「憤り」ではないだろうかと思う。僕自身を振り返ったときに、僕を支えているものも同じような「憤り」だ。なぜただただ真面目に生きていた人たちが、ある日突然こんな目に遭わなくちゃいけないのか。こんなに非力で無能な自分に対しての「憤り」。いったい俺は何をしているんだろうか。自己満足で、野次馬根性で、「助けてやろう」「いいことをしてやろう」という助平根性で生きている薄汚い自分。でも、どこかで希望を掲げている。自分の中にも自分に対する希望の灯火を掲げていて、己を責めながら消えることのないその灯火を見つめている自分もいる。矛盾しているのだ。長渕さんの唄(詩)は、「労り」なく、「同情」なく、生きていくことそのものを鼓舞する唄(詩)だった。僕は長渕さんの大ファンである。ギターを始めたのは、小学6年生のときに「とんぼ」を聴いたから。だからこそ、という接続詞はおかしいかもしれないけれど、だからこそこのタイミングでの邂逅に不思議な御縁を感じざるを得なかった。わずか15分の出来事だったけれども。
(撮影:長尾彰)
門脇中学校では、陸上自衛隊東北方面音楽隊(宮城県仙台市)と米陸軍第296日米陸軍軍楽隊(神奈川県キャンプ座間)がコンサートを開いていた。長渕さんもすごかったけど、僕は彼らの取組により心が動かされた。体育館の入口で、50人ほどの聴衆(避難されている方々)を前に、スタンダードナンバーや時にはSMAPや嵐の曲を演奏する自衛隊。その自衛隊を米軍が盛り上げている。片言の日本語で話しかけて、笑顔で接して。自衛隊の音楽隊の凛として迷いの無い姿勢からは、長渕さんのエネルギーとは違う「労り」や言葉にし難い「迷うことのない気概」を感じることができた。それを聴く聴衆の笑顔と、涙。楽しそうに笑う人たちを見て、涙が止まらなくなってしまった。僕はそれまで、できるだけ人前で涙を見せないように努力(笑)していたのだけれど、この時ばかりは自衛隊の人たちに囲まれながら泣いてしまったのであります。だって、音に乗せて「いっしょにがんばっていこうね、共に歩んでいきましょうね」という想いが伝わってきちゃったんだもん。
(撮影:長尾彰)
音楽隊の最後は、日米合同の演奏。指揮者のもと、強風が吹き手もかじかむ中、乱れのない演奏を聴かせてくれました。音楽という共通のキーワードで、国も越えて繋がっている実感。「世界でいちばん人を助けた自衛隊」を誇りに思う。そしてその姿勢に心を打たれる。また、米軍も決して出しゃばることなく、自衛隊を輝かせる名脇役として場に関わってくれていた。まだまだ若い軍人たちは決して笑顔を絶やすことなくシャイな東北の人たちに関わっていた。そのコンビネーションが本当にうつくしくて。組織と組織が連携をするということ、協働するということがなんなのか、ということを深く感じさせてくれた。長渕さんの唄は、涙が多く見えた。合同軍楽隊の演奏には、笑顔が多く見られた。
(撮影:長尾彰)
渡波中学校。ここは危険区域に指定されているけれど、地区の方が50名ほど避難されている。ここで石巻専修大学のボランティアセンターで知り合った渡辺くんと落ち合う。渡辺くんといっしょに石巻の隣町、女川町で活動しているのはプロバスケットボール選手の熊谷渡さん。彼は女川町のミニバスチーム、女川フィーバーエンジェルス(女川第一小学校+女川第二小学校混合のスポーツ少年団)の支援に入っているとのこと。僕は小中高大とバスケットボール漬けだったため、彼の支援もしたいと強く思っている。渡波中学校は4月21日から再開する。教室や体育館はまだ授業で使うには危険で、避難されている方もいらっしゃるため、1年生はA小学校、2年生は渡波中、3年生はB中学校の空き教室を借りて新学期を始めるとのこと。写真のように、体育館に置かれていたボールは泥まみれになってしまった。フロアも、バスケットボールシューズも、ユニフォームも流されてしまった。ミニバスも、中学生も、1ヶ月以上ボールを持てないとなると、これまでの練習の蓄積や新チームとしての立ち上げが遅れてしまう。衣食住の復旧が求められているのは承知のうえで、こういった「スポーツ少年団」「部活」といった視点でも放課後の子どもたちの居場所をいち早く「復旧」したい。
(撮影:長尾彰)
夕方、湊水産に寄る。道路は泥が乾き、上の写真のような砂の状態で5センチほど堆積している。湊地区は50センチほど地盤沈下をしているとのことで、満潮時には水浸しになる。そのたびに道路脇に寄せられたヘドロは流れだしていってしまう。この状況も震災後、5週間変わっていない。
(撮影:長尾彰)
湊水産の木村さん。僕の大切な友人。津波を生き残り、水産加工場を失い、それでも浸水を逃れた工場の3階部分を開放し、いまなお30人ほどの避難者のお世話をしている。自宅も工場の敷地内にあり、被害を受けたにもかかわらず、この5週間、避難している人たちへの食事の準備や細々としたことを一手に引き受けている。先週まで敷地内にあった10㌧トラックは撤去されて、看板前に乗り上げていた3台の車も撤去されていた。着々と片付けは進んでいるけれども、現状復帰には程遠い。車が流されてしまったせいで、いまだに被災証明を役所に提出もできていないとのこと。「ほしい物を言い出したらきりがないけれど、うーん、今はゴミを運び出すための軽トラと、乗用車が一台ほしいかなぁ。」やーやちゃん、どうにかするからもう少し待っててくれ。
(撮影:長尾彰)
今回の訪問も2日間と短い時間でした。
日中から深夜まで目一杯活動して、宿泊は石巻専修大学のボランティアセンターのテント村。
とても冷たくて強い風が吹き荒れ、テントは潰され、それでも寝袋にくるまって眠った。
被災者も、支援者も、体力的にも大きな負担が強いられている。
今回も僕らは寄付いただいたお金を約20万円、レンタカー3台と子どもたちのための支援物資(文房具など)に充てさせていただいた。
Just Givingを使って寄付を募っているが、このペースでは半年ほどしか活動ができない。我々も一支援者の立場であるが、やはり大きな負担を強いられている。継続して支援活動をする、あるいは集中して支援活動を実施するために、ある種の枠組みを早急に作らなければならない。「結」の取組では、「調整」「検討」が続いていて、もどかしい。
次回の訪問は4月の25日、26日。土日に訪問すると行政関係者と繋がるのが難しい、ということがここまでの活動でわかった。ということで、平日の月・火で湊水産の片付けを手伝いつつ、石巻市教委等と繋がってこようと思います。
:)