昼間、お台場でのチームビルディングの仕事を終え、その足でもりのすけの友人である芸術家と食事をしました。
もりのすけが「これから芸術家と会うんだけど、行く?」とたずねるので迷うことなく「行く。」と答えました。
夜中の1時過ぎまでいろいろな話をしました。そして、いろいろなことを感じました。
このところ考えるところが多く、そしてそれは自分と自分以外との関わりについて考えています。
日々の暮らしが落ち着いているので、雑念が入らずに考え事ができるということは素晴らしいことです。
自分の頭の中の引き出しがどんどん整理されていく、そんなイメージで考え事をします。
この半年、頭を駆け巡るキーワードは『信仰』と『科学』と『芸術』の3つです。
この3つに共通していることは、それぞれが人を解放するものであることです。
「何をわけのわからないことを」と思われるでしょうが、人が人らしく生きていくために自分自身に刻まなければいけないのはこの3つだと思っています。
なにやら哲学めいてきますが、なに、かまうものかい。
信仰は気持ちを救います。しかし信仰と宗教とは別物です。
信仰は行為であり宗教は存在だと僕は捉えているからです。
ムスメが産まれるとき、僕は神様に祈りました。
「今までしてきたことはちゃんと反省するから、ムスメだけは無事に産ませてください。」
「どうか、相棒を助けてください。」
祈ることは信仰なのだと僕は思いました。
結果、ムスメも相棒も無事だったので神様のおかげかもしれませんが、実際のところはよくわかりません。
しかし僕は祈りました。
信じることで救われたからです。
信じることで僕は解放されたわけです。
信じることで僕は救われた、というわけです。
ある人は仏陀を信じ、ある人はキリストを信じ、ある人はマホメットを信じ、ある人は自分を信じることで、不安や畏れから自分を解放するのではないか?
そんなことをムスメが産まれた時に考えていました。
『科学』も同様に僕を解放しました。
客観性と論理性を重要視したプロセス、というのが僕の科学という言葉の定義づけです。
事実を扱うということ。事実と真実は異なります。
科学では事実を扱います。
その例のひとつが数学という学問です。
僕は数学が大の苦手でした。
「でした。」と使うからにはそれなりの理由があるのですが、今は数学という学問に大いに興味を持っています。
たとえば1+1=2という式。
とても客観的です。とても論理的です。「2」という現象を表現するのに、この場合は「1+1」というプロセスがあるわけです。
同じ「2」という現象を、「1×2」あるいは「4×0.5」さらに「100÷50」で表現ができるわけです。
あきらよ、気でも狂ったか、と思われているかもしれませんが、もしかしたら僕は気が狂ったのかもしれません。
この客観性と論理性に31歳になって驚きをもって気づいたわけです。
そしてこの事実が僕を解放しました。
「あらゆる事象は数学的に表現できる。」という事実です。
ポイントはこれが事実だ、ということであり、必ずしも真実ではないところがミソです。
何がすばらしいかって、数式で表現ができる、ということは他人と概念を共有できる、ということだからです。
フラクタルという言葉に出会ったことも大きいです。
部分が全体を構築し、部分が全体を構築している。
世の中が僕を構築していて、僕が世の中を構築しているわけです。
数学が科学であり、科学が数学でもあるということ。
私はあなたであり、あなたは私であるということ、すなわち「存在を認める」ということ。
科学は信仰であり、信仰は科学であるということ。
この事実は僕をショッキングに解放しました。
目に見える風景が変わったからです。
芸術。
芸術は人が創るものです。
そしてそれを受け取る誰かがいて始めて成立する事柄です。
表現が誰かに影響を与えるということ。
例えば音楽。
ギターがあって僕がいて、歌があってムスメがいる。
僕がギターに合わせて歌を歌い、傍らで楽しそうに踊るムスメがいる。
12歳からギターを弾き続けてきたわけですが、初めて僕は「人のために歌を歌いたい、ギターを弾きたい、僕のこの気持ちを音楽にして奏でてみたい」と思ったわけです。
じゃあお前は今まで何でギターなんか弾いてきたんだ、ということになるわけですが、そこはいたってシンプルです。
かっこつけてただけです。持てたかったんです。「ギター弾けるなんてかっちょいいなあオレ」と悦に浸りたかっただけなんですねこれが。
でもそうではなくなった。
音楽という手段で、ギターという道具を使って、メロディを奏でて言葉を紡ぐことでムスメと交信することができるのです。
この瞬間にあらゆる不安や畏れから解放されます。
ジョン・レノンの音楽も、モーニング娘。の音楽もある部分である人たちを解放しているわけです。
クリムトの絵も、東山魁夷の絵も、榎本俊二の作品も、ある部分である人たちを解放しているわけです。
やっとここまできた。
でね、何が言いたいかというと、ファシリテーションというのはつまりこの3つの要素が重なっている、ということです。
技術や役割や手段ではない、ということです。
facilitationという単語は「容易にすること・促進すること」などと訳されていますが、僕にとってのfacilitationは「解放すること」です。